放射能を浴びた[X年後]

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制作者のことば
監督 伊東英朗

※監督メッセージ全文はパンフレットに収録されています。

取材を始めた12年前からずっと感じてきたが、室戸の海は見るたびに表情が違う。色も音も波の大きさも。ああ、瀬戸内海に面した地元愛媛とは違うなあ、と感じる。何しろ大らかで豪快だ。「おんちゃんたち」は、その海と隣り合わせに生きてきた。話は語れど、苦しいことや辛いことを饒舌に語ることはない。命に関わることも、人を助けたことも、体の異変も――。川口美砂さんのお父さんも、そんなマグロ漁師の一人だった。

川口さんとは、2013年に室戸で元漁労長の山田勝利さんが上映した『放射線を浴びたX年後』を見て僕たちに連絡をくれたのがきっかけだった。都内のカフェで初めて会った川口さんは、お父さんは36歳で亡くなったと語った。愛媛に戻り調べたところ、お父さんが乗っていた船は、放射能で汚染した魚を廃棄していた。その後、高知県室戸市に年末年始で里帰りしていた川口さんと2015年正月、再会。早速、生存者の聞き取りが始まった。その後、10月までに、川口さんは70人近い生存者や遺族から聞き取った。その一部始終に立ち会い、カメラに収録することができた。

広島、長崎の原爆投下からわずか10ヶ月後、マグロの漁場で始められた核実験。繰り返される核実験で漁場は激しく汚染。第五福竜丸の被ばく発覚後、放射能検査が行われ、延べ992隻もの被ばく船が見つかったにもかかわらず、政府は「すでに測定の必要がない」とし、その年の12月、わずか10か月で検査を打ち切った。『直ちに健康に影響がでない』ため、人々は少しずつ事件を忘れていった。10年後には東京オリンピックが開催され、日本は、さらに上を向いて歩み始めた。いつしか、事件は完全に忘れられ、「第五福竜丸」と「髪の毛がぬける」という言葉だけが脳裏に刻まれた。

そして第五福竜丸の事件から57年後の2011年3月。福島で原発事故が起こり、放射能検査が始まった。そして12月、安全宣言がされた。事故からもうすぐ5年。放射能の影響があいまいなままだ。「いつまでも、悲しいことを考え続けるのはやめよう。前向きに生きようじゃないか」という声が聞こえてくる。奇しくも事故から9年後となる2020年、東京オリンピック・パラリンピックが開催される。ビキニ事件では、半世紀後、事件の記憶はほぼ消えていた。いま、新たなX年後に向けてカウントダウンが始まっている。半世紀後、日本人は、何を覚えているのだろうか。そしてその時、人体に何が起こっているのだろうか。

36歳で亡くなった川口さんの父親や、45歳で亡くなった和気(大黒)さんの父親が受けた被ばくを医学的に裏付けることは難しい。しかし人体に重大な危害を加える危険な物質が蔓延する中で操業を続けたことは、船員手帳と厚生省の文書をつき合わせば事実であることは分かる。

この事件に限らず、被ばく事件においては、被害者が『被ばくしていること』証明しなければならない。なんという矛盾だろう。本来ならば、加害側に立つ者が、激しく放射能汚染した漁場で働き、早く亡くなった乗組員の死が、100パーセント放射能によるものではないことを医学的に証明し、被害者や遺族に伝えるべきだろう。想像を絶する量の放射線を生み出し、アメリカ本土や日本列島が放射能汚染していることを、少なくとも1952年には把握しながら実験を続けた責任は重い。

2004年に前作『放射線を浴びたX年後』のための取材を開始してから12年。これまで多くの方々に支えられて、ここまで来ることができた。これまで自分が倒れるまで一生追い続けていくものだ、と覚悟を決め、取材を続けてきた。『放射線を浴びたX年後2』が完成した今、ますますその思いは強くなっている。僕の旅はまだ終わっていない。これからも被災者と共にありたい。

何があっても諦めないぞ!

監督 伊東英朗(いとう・ひであき/南海放送ディレクター)

1960年9月15日生まれ、55歳。愛媛県の公立幼稚園教諭として16年間勤務。2001年から同県の民放放送局、南海放送でディレクターとして番組制作に関わる。2004年から太平洋核実験の漁船被ばく問題の取材開始、関連するドキュメンタリー番組で石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞ほか受賞。その8年にわたる取材の蓄積を映画『放射線を浴びたX年後』としてまとめ、全国劇場公開、自主上映は200カ所以上で取り組まれ、ギャラクシー賞、日本民間放送連盟賞、放送文化基金賞、日本記者クラブ賞特別賞、など数々の賞を受賞。いまなお通常のディレクター業務の傍ら継続取材をおこなっている。著書に、その継続取材の軌跡をまとめた「放射線を浴びたX年後」(講談社)。

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